2枚の家族写真に思うー戦争に引き裂かれた家族の悲惨と不安ー

 1枚の家族写真、これはリュブリャナスロベニア)のある古書店・出版社のフェイスブックから借用したものだ。映像作家の創作なのかそれとも実際の家族写真なのかはわからない、いつの時代のものか、第二次大戦の時かそれともユーゴスラビア解体後の内戦の時か、それもわからない。それでもこの写真に感じ取られる家族の苦悩と悲劇の雰囲気に心揺り動かされる。この家族の夫であり父親である人物の不在はつるされた大きな黒い外套で示されている。不安げな表情の妻と事情を知らずに軍帽をかぶせられた子ども、この対比に胸打たれる。

 


この写真をみて私はすぐに手元にある写真を思い出していた。私の数少ない戦前の家族写真だ。私の父岩次郎はここには写っていない。岩次郎はこの頃には中国大陸侵略に駆り出されていて不在だった。彼は1902年(明治35年)生まれ、私が生まれた1936年(昭和11年)には34歳だった。彼が出征したのはおそらくこの年の私が生まれた直後の夏頃ではなかったかと推定する。帰還したのは1940年だったと思う。私の姉弟は、上3人が女の子(一人は私が生まれる前に亡くなった)で4人目でようやく男の子がうまれた。あの頃の表現を使えば跡取り息子にようやく恵まれたのである。それなのに父は待ち望んだ男の子の成長を見ることもなく戦地に駆り出されたのである。


 軍服を着て写る男性は「島」(当時私のまちでは北方領土をそのように呼んでいた)で仕事をしていたJ叔父である。祖母と同じ石川県能登の出身で「島」から買物などの用事で私のまちに出てくると私の家に泊まっていた。私どもをわが子のようにかわいがってくれた。おそらく彼の出征の際に私どもと記念写真を撮ったのだろう。軍帽をかぶった男の子が私で、まだ立ち歩きが出来ないのか叔父が脚で支えている。私が綿入れの着物を着ているところから判断して撮影されたのはおそらく1937年で、海峡を埋め尽くした流氷が去り「島」との往来がようやく回復する遅い春が到来した頃だろう。あるいはその翌年1939年の同じ季節の頃かもしれない。
 岩次郎は戦死することなく私が4歳の時に無事に帰還した。家族と親族みんなで父の乗る列車を数駅前で出迎えた。雨の日だった。このことは私の幼児の頃の今に残る最初の記憶である。
 その後すぐに太平洋戦争が始まった。彼は2度目の徴兵をまぬがれた。軍需工場の指定を受けた造船所に雇用されていたからだ。それは幸運なことではあったが、その代わりに自分の母を見捨てるかのように目前で焼死させるという戦争の悲劇に立ち合わされることになった。戦地で体験したであろうことよりもはるかに残酷な体験であった。
 父は中国大陸のどこに引っ張り出されたのか、家族に語ることはなかった。父と話す機会は訪れなかった。自分のことばかり考えていたあの時代にはある意味しようがなかったのかもしれないが、それにしても彼はあまりにも早く逝ってしまった。もう少し生きていてくれたら、父と戦争体験を語り合えたのにと悔やまれる。
 しかし調べてみると、岩次郎が出征していた期間は北海道に展開していた第七師団が満州に出兵した時期と一致する。彼が所属していた部隊は関東軍とともにソ満国境でソ連軍と交戦していたに違いない。帝国陸軍が壊滅的打撃を被ったあの張鼓峰事件やノモンハン事件である。あの軍事衝突は戦争中は秘匿され、戦後になってその様子が当事者たちの証言でようやく明らかになった。父が戦地のことを話さなかったのは、彼が無口で穏やかな人格であったためだけではない。箝口令のために話せなかったのではないか。 いまになって私はそのようにも想像するのだ。
 幸せそうに見える父親不在の家族写真の裏には、想像を絶する生死をかけた戦闘の渦中にある父の姿が隠されていたのだ。そのように見ると、この写真もリュブリャナの家族写真と同じように残酷なものだ。

 この写真の由来にもすこし触れておかねばならい。私の子ども時代の写真や記録は1945年7月15日の空襲ですべて失われた。この写真は戦後にJ叔父から提供されたものだ。J叔父もおそらく満州に出征したはずで、無事帰還したものの1945年8月に千島列島に侵攻したソ連軍に追われて難民化し北海道に逃れた。彼はアルバムから家族写真を剥がして胴巻に隠し持ち帰った。先祖の位牌よりも写真が大事かと後に変わり者扱いされたといういう。彼の決断によって私の戦時の記憶はこのように残された。感謝している。

 古びた家族写真1枚にも戦争にまつわる歴史が秘められている。リュブリャナの写真のその後の家族の歴史はどのように展開したのだろうか。いつの時代でも地球上のどの場所でも戦争は家族の運命を無残にも引き裂く。
 私のこのささやかな体験記録を戦争によって家族を引き裂かれ悲惨の中に彷徨する人びとに捧げたい。

1945年7月15日ー私の生を分けたあの時ー

 1945年7月15日、この日に私は米軍艦載機の熾烈な銃爆撃で最愛の祖母が殺された。私は幸運が重なって生き延びられた。私の生を分け今日の私を可能にしてくれたあの日の記憶を私はいまでも生々しく甦らせることが出来る。私の再生の出発点として私の学問を可能にしてくれた原点として、この日が来るとこの記憶を反芻することにしている。
 私はその時国民学校4年生、まだ9歳であった。9歳の記憶が戦争の実態を解明する上で確証となりうるかという批判がおこりうることは承知している。それだからこそ、私は体力が許す限り現場に立ち、可能な限り資料や写真を収集して、私の記憶を確かなものにしようとしているのだ。この日に当たり、私は数枚の資料を示して記憶の確認を試みてみたい。

 1枚目の写真はアメリカ軍艦載機のガンカメラが撮影したものだ。アメリカ軍は攻撃の成果を確認するために機銃にカメラを装着し膨大なコマ数の写真を撮影していた。その一部は国会図書館にも収蔵されてはいる。大部分はアメリカの各種の公文書館に保存されているはずで、まだ十分に調査されていない。最近NHKが収集したその一部が番組で公表されたが、全体が整理修復されて公表されたかについては情報がない。
 これは空襲問題研究者Tさんがアメリカまで出かけて発掘した写真のうちの1枚である。私が地域の防空壕を脱出した直後、私の家がまさに燃えている、逃げ遅れた祖母が断末魔の苦しみでもがいているその時が写されている。
 あの日の空襲は早朝6時過ぎに開始されたと思う。空襲警報などまったく意味がなかった。メガホンで空襲警報発令と触れ回るのと同時に機銃掃射と爆弾投下が始まった。地域の児童遊び場に作られた防空壕が指定されていた避難場所だった。足の不自由な祖母を父に託し、家族全員が取るものも取りあえず壕に逃げ込んだ。
 私の家のあった本町3丁目、通称本町埋立地、柳田埋立地は倉庫が建ち並び千島列島の基地に運ばれる軍需物資が空地に野積にされていた。一番先に攻撃の対象になったのは当然のことであった。私の家の筋向かいにあった旅館三洋館の裏手から火が出たという知らせが入ってきた。バケツリレーと火たたきでは到底消化不能だという。軍

アメリカ軍艦載機がガンカメラで撮影


も町内幹部も逃げるという指示をしはしなかった。それぞれの家族が勝手に逃げ出し始めた。父が祖母の救出のために残り、私たちは迷いに迷った末防空壕からの脱出を決め、梅ヶ枝町に通じる坂道を駈け登った。
 柳田本店の前まできたあたりで第二波の攻撃が始まった。柳田本店前の防空壕に駆け込んだ。道路上に盛り土をした程度の小さな偽防空壕で、いま思い出してみると爆弾が直撃したら全員即死だったろう。そこに逃げ込むのとほぼ同時に防空壕が崩れんばかりに揺さぶられて土砂が降りかかり、空気窓から爆風とともにガラス片が飛び込んだ。「伏せろ」と叫ぶ消防団員の声もいまだに耳に残る。
 攻撃がやみ、壕を這い出しまた逃亡が始まった。壕を出てすぐに坂の下では三洋館が燃えていた。これまでに見たこともない火柱であった。至近弾による大きなすり鉢型の穴が道をさえぎっていた。十数年前現地にたって、アメリカ艦載機の爆弾投下技術の稚拙さに救われていたことを実感した。防空壕への直撃弾で多くの人が殺された。私はあの時の幸運を実感した。


 2枚目の写真は1枚目の写真をズームして私の家のあたりを拡大してみたものだ。私の記憶が確かなものだったことを示してくれる。三洋館裏の空地から火柱があがっている。おそらく野積みされている重油の入ったドラム缶に爆弾かロケット弾が命中したのだろう。

 3番目の資料は祖母の検視済証明書だ。それによると、8時頃焼死とされている。従兄弟が警察官だったので、その特権を利用してコピーしたものものだ。私が防空壕を脱出したのはおそらく7時頃だったと思う。逃げたほうがいいといわれても、それは公然と声高に指示されてのことではなかったと思う。なんとなくそのような雰囲気になっていったということではなかったか。敵の攻撃を前にして敵に背を向けて逃げるなどと言うことは教えられなかったし、逃亡という言葉は禁句だった。ましてや敵前逃亡となるとそれは非国民的行為として非難されただろう。


 一人だけ防空壕に残り焼死した若者がいた。防空壕の安全を過信したからだろうか、非国民的な行為と非難されることを怖れるあまり足がすくんだのかなどと、私は時々彼の心情を想像する。逃げるという決断はあの時代には大変なことだった。 あるいはこのように想像することもある。私たちが逃げたあとに佩刀した陸軍の将校が巡察し、動揺する住民を叱責したのではないか。

  本町埋立地の爆撃直後のこの写真を博物館準備室で発見したとき、私は心が震えた。写真右下に見える道は私は逃げるときに通った梅ヶ枝町に通じる坂道だ。その道を下がっていくと右に曲がる道が見える。その手前の角が地域の児童公園と崖にさしかけて作られた防空壕だ。写真から見ると壕は燃え尽きて崩れている。その向かいが旅館三洋館だ。私の家はこの道の先10メートルもないところだが写真には写っていない。


 燃え残りがまだくすぶっているところみると、爆撃の翌日7月16日に撮影された可能性もある。この日の写真だとすれば、父が母の遺体を荼毘に付している様子が写されていたはずだ。その翌日の17日に撮影されたのであれば、祖母の骨を拾う私の家族が写っていたはずだ。
 私はこの場所に戦争史について書くことを決意した時まで足を踏み入れたことはなかったと思う。あの場所で私の記憶はすべて葬られた、祖母の骨を拾ったあの時以来私の深部でなおくすぶり続ける両親に対するわだかまりもここから始まった。ここは私にとっては墓地そのものであった。その記憶のすべてを書き残す決断を私はいまだに出来ずにいる。

 9歳の子どもの記憶でも調査と資料の裏付けさえあれば十分に歴史の証言者となれる。あのころ9歳であった少年にあの戦争を許した責任があるかと問われれば、私は即座に否定する。しかし、あの戦争を振り返ってその悲惨さを伝えることは私の世代の歴史的責務ではないか。日本帝国の必勝を信じ「少国民」として天皇に命を捧げることを誓ったことは明らかに強制されたものであったにしても、そのことを歴史の教訓として総括され、伝え続けることは私の世代の責務ではないか。毎年この日がめぐってくるたびに私はその思いを新たにする。